高田郁さんの「みおつくし料理帖」との出会い
今から8年程前に「高田郁さんの 『みおつくし料理帖』って、知っていますか?」
と、同僚から聞かれました。昼休み時のことだったでしょうか。
物語のあらましを聞くと、江戸時代を舞台にした時代小説的な印象を受けました。
その頃は時代小説的なものにはほとんど関心がありませんでした。その話はしたものの
しばらく忘れていました。
そんなある日、本屋さんに立ち寄った際、何気に高田郁さんの
「みおつくし料理帖 八朔の雪」が目に留まりました。不思議なものですね。
人ってどこか無意識の所で、心に引っかかったり、気に留めたりしたものと
出会おうとするものなのでしょうか。
そして、棚のその本に手を伸ばしてしまったところから、わたしと高田郁さん
という小説家との長~い、今も続いているお付き合いが始まったのです。
「みおつくし料理帖」にはまってしまいました。なぜ?
私が思う「みおつくし料理帖」の魅力1 うんちくに富む言葉、心にとどめておきたい言葉が随所にちりばめられている
「八朔の雪」のかなり冒頭の部分にこんな箇所がある。
短い沈黙の後、芳は澪の方へ寝返りを打った。
「嘉兵衛は、こない言うてた。『才のないものには、恥かかんように盛大に
手ぇ貸したり。けど、才のある者には手ぇ貸さんと、盛大に恥かかしたり』
て。私の反対を押し切って女のあんたを板場へ入れて仕事を仕込んだ時、
嘉兵衛はどうやった?」
これは、つる屋の旦那さんに対して疑問を感じた澪に、一緒に暮らしている
芳が掛けたことばである。
わたしは、こうした言葉に弱いのです。こうした蘊蓄ある言葉を心に留めたたいと
強く思う人間のようです。まあ、すぐにわすれてしまうのですが・・・
こうして、少しずつ少しずつ、みおつくし料理帖の世界にはまっていったのです。
「みおつくし料理帖」にはまってしまいました。なぜ?
私が思う「みおつくし料理帖」の魅力2 美しい文章・美しい情景描写・心情描写
わたしはあまり文章がどうこう言うほどの知識を持ち合わせてはいない。
しかし、高田郁さんの文章は美しいなと,常々思っている。
☆夜半の通り雨で洗われた街並みを・・・・
☆竹河岸と接しているせいか、風の中に青竹の爽やかな匂いが混じる。
☆小松原は黙ったまま、澪を見ている。
澪は、その視線の中にかすかな懸念を感じ取った。口を開きかけて思い直す。言葉なしない方が良
い。澪はゆっくりと深く頭を下げた。澪が一切の詮索をする意図がないことを小松原が読み取って
くれるだろうと信じて、思いを一礼に託す。
決して難しい言葉を遣うのではなく、読み手が情景や心情を想像したり、味わったりすることができるような言葉を選んでくれているのだと思う。
この作者の工夫が、読者の心をぐっと鷲づかみするのだと思う。
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